其の四:ロードレーサーとラッパの話
私は自転車の選手ではないし特別ロング・ツーリングの趣味もない。
ただ、ロードレーサーを日常の足として使う機会が増えるうちに、次第にこの乗り物が単なる交通手段としてだけでなく、なんというか私にとって、様々な「気付き」をさせてくれるとても特別な「道具」になってきた。それこそ私がロードレーサーを好きな理由だと思っている。
私はラブ・ノーツというバンドを結成していて、トランペットとアコーステイック・ギターを演奏している。私がこれらの楽器をかれこれ30年近くも演奏し続けているのも、やはりこの楽器達がわたしに大切なイマジネーションを与えてくれる特別な「道具」だからなのだろう。
意外かもしれないが、ロードレーサーと楽器には実に良く似ている点がある。例えば、トランペットは金属のパイプでできており、その金属の特性が直接性能に影響してくるところなんかがロードレーサーと一緒だ。
そして第2に、お互いに「静寂」の状態から「音」を作り出す事ができる。トランペットは、パイプの中に「風」を吹き込むことにより、それが「音」という波動となって空気を響かせるが、自転車はというと、私の身体の外に風を作り、それはいわゆる「音階」こそ持たないが、香りや光や温もりを含んだ街の「波動」を聞かせてくれる。
前にもふれたが、私はレースに勝つ為ではなく自分自身を「気持ちよいアイドリング状態」にもって行く為にロードレーサーに乗るので、こんな事がとても大切な要素なのだ。
しかし反面、この二つの道具が決定的に逆の部分もある。それは「重量」に関してだ。
ロードレーサーは軽ければ軽いほどいい。これは「自転車軽量症候群」といってロードに凝ると一度はかかる病気らしいが、私もその例外ではない。たった数グラムを軽くする度に「懐」もかなり軽くなる。自分の体重を1キロ減らすほうがよほど安上がりなことは解っているのだが…。
ところが、トランペットはというと、今度は重ければ重いほど良いのだ。 私の愛器は DAVE MONETTEというアメリカの職人が、私の為に3年がかりで作りあげたスペシャルメイドだが、普通のトランペットの3倍近い重量がある。マウスピースはボディと一体成形で、管と管の間には分厚い板が溶接され、ブロンズ製のパイプそのものも出来る限り厚く設計されている。その結果楽器の無駄な振動を押さえて、トランペットの根本的な欠陥である「音程」の問題が解消され、更には音が「よく飛ぶ」ようになる。結果的に唇の負担がなくなり、長時間演奏しても唇が「バテにくく」なるのだ。
よく、人が私のこの奇妙なラッパを持ってそのあまりの重さに驚き「こんなもの抱えて腕が疲れませんか!?」と聞かれるが、確かに腕は疲れる。ただ、腕は鍛えられるが、クチ立て伏せ(?)で「唇」は鍛えられないからなぁ…。
いずれにしても、今日も私は自分のロードレーサーのことを頭に描き「あそこのボルトを軽合にしたら…フォークをチタンにしたら…」等と思いをめぐらす。更に重くなったラッパを背負ってセッションに行く為に…。
其の五:アコースティックな道具たち
私は昔からマーチンのアコースティック・ギターが好きで、随分前にLAの楽器店で出遭った古いトリプル・オーという小さいタイプをずっと愛用している。楽器屋のオニーサンが楽器の中に刻印してあるシリアル・ナンバーを見て「1930年代の楽器だ」と言っていたから、作られてから60年を超える事実上私自身よりも遥かに年上の楽器ということになる。
正直なところ、この楽器は私のライフワークである作曲活動のイマジネーションを与えてくれている「最も大切な道具のひとつ」といえる。しかし、実はこれに加えてもう一つ、私の曲作りに欠かせない道具が存在する。それが私のロードレーサーなのだ。
長い時間ギターを抱えて曲作りをしていると、時々無性に夜の街をロードレーサーで走りたくなる。急いで身支度を済ませ外にこぎ出すと、時に、耳を通り過ぎる風の中に曲のアイデアを見つけることがある。こんな時私は、自転車という道具はギターと同じくとてもアコースティックな道具なのだ、と強く思う。
この場合の「アコーステイック」とは、単に電気を使っていないという意味だけでなく、「音響的」。要は人間の「本来の感覚」に訴える割合の多いとても「繊細」な道具であるということなのだ。私の場合、このようにアコーステイックな道具達に囲まれていると、時にはまるで自分自身が、ひとつの楽器になったような気になることさえある。
長年、唄やメロディを作っていると、時々後になって「この曲は何か大きな力に作らされたのでは…」と感じることがあるものだが、もしかするとこんな「自分自身が楽器になった気持ち」と何か関連があるのかもしれない。
夜通しで作業に没頭して、朝方の街に出てゆく。すると夜とは全く対照的な都会の日常…アーティフィシャルな雑音のオーケストラが幕を開ける。クルマ、バイク、街頭演説、どれもが怪物のように有らん限りのだみ声を張り上げはじめるのだ。どうして人間はもう少し静かにできないのかな…。
またイルカの話になるけど、僕らが「国際イルカ・クジラ会議」に出席した時にブリュッセルで出会った、ある博士が教えてくれた話をしよう。
ポール・スポング博士はカナダのハンソン島という離れ小島でオルカ(シャチ)の生態を調べていて、昼夜を問わず水中マイクで彼らのコミュニケーションを聞き続けている。
博士が言うには、普段オルカ達は水中でほとんど絶え間なく静かに会話をしているらしいのだが、一日のうち何度かその会話が途絶える時というのが、近くに観光船が通る時なのだという。船のエンジン音が近づくと、それまでの楽しげな会話がピタリと止まり、皆じっと黙ってしまう。それがゆっくりと遠ざかって次第に静寂が訪れると、また誰からとなく会話が再開されるのだそうだ。
水中は空気中の何倍という速さと密度で音が伝わるわけだから、オルカ達にとってみれば一台のボートが来る度に、例えば我々がテラスで食事をしているところに目の前を暴走族の80人ぐらいのグループが通り過ぎて、思わず絶句して眉を顰めてしまうのと同じようなことを、人間はオルカ達に対して一日中繰り返しているわけだ。これははっきり言ってハラスメントですよね。
私達人間ひとりひとりが、もう少しでも繊細になってアコースティックな生活ができるようになると、今迄騒音で聞こえなかった様々な自然の音がたくさん聞こえてくるんじゃないだろうか…。
〜 スギアヤ模様もなんとなく似てたりして… 〜
其の六:カンパのスーパーレコード
私のMOTTAがついに壊れた。ショックである。
深夜代官山で、長い下り坂から急な上りに差し掛かってフロントをインナーに落とそうとした時だった。さしてトルクをかけてはいなかったのだが、急にチェーンが絡まりクランクがスタックした。前の変速機のバンドが割れたのだ。
翌朝近くの自転車屋さんに自転車を押して行き、相談してみると「あ、バンド締めね」と裏から新品の部品を出してきてくれて、直ぐに取付けてくれた。2800円也。そこそこの出費を覚悟していた割には安くあがったなぁ〜。
「壊れた方、どうする?」とおやじ。「じゃ、一応持って帰ります」「そうね、飾っておくといいよ」「ハぁ?」「これカンパのスーパーレコードって言う今もう無い型だからね、壁にでも飾っておいたら?」…そうか、そんなに貴重品だったんだ、これ。もしかしてホントなら交換する部品もカンパのスーパーなんとか?じゃなきゃいけなかったのかな〜。
そんなちょっとした後ろめたさを感じながらも、うーん。ただ、この自転車は私が譲り受けたものだから、私の自由にしていい筈だ。ましてや元々貰った時その「ザ・大先輩」に「これで毎日走ります」と、宣言をしたわけだし、機能を優先して考えれば部品は新型のほうが良いに決まっている。壊れたところはしょうがない、もっとガンガン乗って、直せるだけ直して、もし完全にぶっ壊れたら新しい自転車を買えばいいんだ。とも思った。
しかし反面、この自転車が20年近くを経ながら、どこも故障せずに全てオリジナルのまま保存され、何よりもオーナーに愛された「名車」であることも事実であった。
そして今、改めてMOTTAを眺めてみる。こうして壁に立てかけてしげしげと観てみると、ロードレーサーというのは実に必要最小限の部品で組み上がっていて、それぞれの部分部分に表情があることに気が付く。
この自転車が僕のところに来たばかりの時は、シャンパン・ゴールドのフレームだけがこの自転車の持ち味なのかと思っていた。ところがこうしてみると、ハンドルやステム、ヘッド・パーツから始まって、ブレーキやWレバー、クランク、リア・ディレイラーやハブに至るまでの部品の、統一されたアルミ合金の色やデザインがこの自転車のトータルな雰囲気作りに貢献していたのだ…。
そこで今回交換した部品である。
フロント・ディレイラーとはクランクのところの大きなギア板(チェーン・ホイールという)の上にちょこんと乗っかっている小さな部品なのだが、やっぱり、どーもここだけ雰囲気が違ってしまったように感じるのだ。
私は壊れたディレイラーをその位置に置いてみた。暫く眺めて、これを私にくださった「ザ・大先輩」の顔を思い出し、そして決心した。 やはり同じ物をなんとか探してみようと。
その時は気がつかなかったのだ。それがその後とんだドツボにはまろうとは…。
自転車の部品集めの話はまた別の機会にするとしよう。とりあえず今言える事は、「マニアック」な世界は「楽器」も「自転車」も一緒だということ。やれやれ…。
〜 壊れたカンパのフロント・ディレイラー 〜