Hiro's page

Homage to Chet
「チェットとの出逢い、そしてラブ・ノーツ・・・今、21世紀に思うこと」
ヒロ川島(ラブ・ノーツ)

「私がチェットと初めて話をしたのは1986年、彼が初めて来日した時だった。両手をポケットに突っ込んでホテルのエレベーターから現れたチェットは、少し不健康そうだったが、とても優しい話し方をする人だった・・・」

これは私が彼の死の翌年1989年に綴った「Homage To Chet」の冒頭だ。
あれから更に12年が経った。今回は、エッセイ「ブロークン・ウィングを抱きしめた街」も同載されるようなので、当時の私の「想い」は、そちらをお読み頂くとして、ここではチェット・ベイカーの13回忌を迎えるにあたり、私の今の気持ちも込めながら改めて綴ってゆきたいと思う。


1988年の5月にチェットがアムステルダムで謎の死を遂げた時、広告会社に勤める私はほとんど衝動的に彼に捧げる追悼広告の掲載を企画した。一緒に働いていたグラフィック・デザイナーやチェット・ファンの友人達の協力を得て、その広告はSJ誌7月号に掲載された。
チェットの遺した重大な遺産を前にして、私のこの提案は恥ずかしいくらい小さな物だったが、しかし原稿の締め切りまでのたった3日程のあいだに定員(享年に因んで58名)をオーバーするほどの賛同者を得、その方々と一緒にひとつの"気持ち"を表現できたことは今思い出してもとても感動的なことだった。
ジャズのような、即興的要素を持つ音楽は人それぞれの問題意識によってさまざまな広がり方をする。そしてある時、何かのきっかけで自分の心に共鳴するたった1回の演奏に出会い、結果的に自分自身のその後の人生に大きな影響を受けることがある。
まさに私にとってチェットはそんなアーティストだった。
チェットの自伝的ドキュメンタリー映画『Let's get Lost』も最近はレンタル・ショップで借りて観られるようになり、チェット・ベイカーの生き方や人間そのものもより多くの人々に知られることになったが、この映画も、実はカメラマンのブルース・ウェバーという熱狂的なチェットのファンが、最初は3分程度のクリップを作るつもりで始めた撮影だったが、チェットと出逢い、大きな影響を受けた結果、その熱意で大作に創りあげてしまった作品なのだ。

1986年、私がチェットと初めて会った時、その出会いそのものは特別なものではなく、実によくある29歳の日本人のファンと56歳のアメリカ人のジャズマンとのそれだった。
しかしそんな我々の関係値を何倍にも高めてくれたのが、私が当時から昼間は広告会社に勤めて夜は自分のバンドでトランペットを吹いていたこと、そしてもうひとつは、翌年87年にもチェットが再来日したということだろう。そして、それらの要因は今想えば単なる奇遇ではなかったのかもしれない。
86年に私はチェットにとっては初めての東京の街を案内したり、行きつけのレストランで一緒に食事をしたりして、楽しい時間を過ごした。また彼がヨーロッパに帰った後も国際電話で近況を報告しあったりした。そして翌年87年にチェットが再度来日した際は、また同じレストランに行って再会を喜び合ったのだ。

チェットと実際に話をしてまず印象に残ったのは、彼がいかに50年代〜60年代のマイルスに影響を受けたかということだった。
「僕のジャズ・トランペッターとしてのスタイルを決定的にしたのはあの頃のマイルスだ。あの演奏を聞いて、その真似をしたんだよ。50年代60年代のマイルスの音楽世界はとにかく素晴らしいよ」と嬉しそうに語っていた。彼はしきりに、私にマイルスの曲をたくさん演奏して勉強しろと言っていた。「僕はもともとリー・モーガンが好きだよ」と言うと、「あいつとは一時NYで一緒に暮らしていたけど、なにしろひどいジャンキーでさ・・・」などと、自分を棚に上げてブツブツ言っていたのがおかしかった。
ジャズ・ジャーナリズムはチェット・ベイカーというと、ビックス・バイダーベックや、バニー・ベリガン、果てはボビー・ハケット等の白人トランペッターの名前を引き合いに出すことがあるが、歴代のトランペッターについて彼と話をした限りでは、B.バイダーベックに関しては、「友達がBIXという名前の犬を飼っていた以外は何の繋がりも感じない」と言っていたし、ボビー・ハケットに至っては「ボビー・ハケット?あんなの退屈で聴いてられないよ」と、会話の途中で不機嫌になってしまった程だった。

東京での最後の日には、チェットを新宿のジャズ・クラブ「J」に連れて行ったのだが、そこには偶然にもチェットのバンドのメンバーが来ていて、お陰でごく自然にセッションが始まり、結果、私はなんとチェットと並んで座りトランペット・バトルをすることになった。そしてその時の模様を、店のVTRが偶然にも捕らえていた。当時はそれこそ恥ずかしくて人にも見せられない、と思っていたその映像だが、今にしてみれば本当に貴重な映像であり、ジャズ・スポット「J」には心から感謝している。
そして翌年の2月23日、チェットは私の誕生日に10年近く愛用したトランペットをパリから贈ってくれたのだった。
勿論私は感激した。だが、それは単に彼の愛器を譲ってもらって「嬉しい」という感情以上に、むしろ自分への重大な「示唆」に対してまさに「困惑」した、というのが正直な気持ちだった。
そして、事もあろうに、その80日後に、チェットはアムステルダムで帰らぬ人となってしまったのだった。


Chet 私が初めて彼の音楽に接したのは、多くの人達がそうであるようにパシフィック時代の演奏や歌を聴いた時だった。私はまだ高校生で、チェットのアルバムはジャズ喫茶ではあまりかからないので、もっぱら両親がチェットのファンだという友人の家で聴かせてもらったりした。
でもその頃の私はトランペッターといえばリー・モーガンやウディ・ショウなんかのパワフル系が魅力的で、チェットのトランペットは正直言ってインパクトの薄い軟弱なラッパ…と思い込んでいた。
ところがそれから随分経ったある日、渋谷のジャズ喫茶でチェットのカムバック後の作品『You Can't Go Home Again』(Horizon) を聴いた時、その中のタイトル曲のバラード・プレイに何故だか心の底から感激してしまった。そして思わず手にしたそのLPジャケットを見て、そこに写るチェットの容姿のあまりの変わりざまに驚くとともに、何か言いようのない気持ちになった私は、"やっぱりダテに歳はとってないなァー" "これは一生付き合えそうなラッパかも…" と本気で思ったのだった。
私がこの時、彼のプレイのどこに感じたのかといえば、それはやはりチェットのトランペットの "音" にだったと思う。
その時私は、彼の内側にある美意識が、ほとんどその形を崩さずにメロディとなって紡ぎ出されている-- とも思えるほどに、まるでこちら側の心の波動と同じに震動しているような、まさに "声" を感じたのだ。
チェットは長年のキャリアの中で、一度だけ、自分のラッパの「音」を完全に「リセット」しなければならない経験をしている。それが彼があるトラブルが原因で全ての歯を失った時だったということは良く知られるところだが、その時以降の、入れ歯奏法(?)による彼の新しい「音」が、皮肉にも彼の音楽表現に更に磨きをかけた、と私は思っている。音色的にもまた音域的にも「肉声」に近づき、以前よりもふくよかでソフトな印象を与える音色になったのだ。
余談かも知れないが、バルセロナで最大のCDのチェーン店を経営している友人の話では、晩年チェットが遺した多くのアルバムはスペインでも良く売れているらしく、ヨーロッパでは特に最晩年のチェットの演奏においては、その1つ1つの音があまりにも切実な故に、楽器のテクニックという評価以前に彼の音の素晴らしさを認めざるを得ないというようなファンも多いという。
チェットはその人生において何度かの挫折を経験しながらも、トランペットを吹き続けることによって、自分だけのトランペットの「声」を取得した。
そしてもうひとつ忘れてはいけないのは、彼が生涯を通して続けてきたいわゆる「スイングするメロディ」の探求だ。彼は若い時から大変なメロディ・メーカーであったが、そのクリエイティビティは歳をとって更に輝きを増していった。その結果、晩年においてチェットはどんなハーモニーの中での音の選択においても、より自由でスインギーな世界を自分の中で押し広げていくことのできる、独自の表現を持つ演奏家になったのだ。
チェットはかねがね「ジャズのソロは誰にでもわかりやすく始めなければいけない。
例えば4歳の子供にでも受け入れられるような簡単なメロディから入っていくべきだ。」と言っていたが、彼の一聴シンプルで実にわかりやすい音の組み合わせの中に感じる、並外れたインテンシティ(緊張感と集中力)から、私はモダン・ジャズの歴史を生き抜いてきた1人の大物ジャズマンの凄みのようなものをも痛烈に感じさせられる。これこそチェット・ベイカーの音楽の魅力であり、何度聴いても新鮮で古さを感じさせない彼の魅力の秘密だと思う。

例えば、「チェット・ベイカーは何から聴いたらいいか」という人に対して、私は先ず2枚のCD 『Let's Get Lost』 を聴いてごらんなさいと答えるようにしている。その2枚とは、1枚が1953年から56年にかけて録音された『The Best Of Chet Baker Sings "Let's Get Lost"』で、これは日本で人気の高いパシフィックの 『Chet Baker Sings』 と 『Sings & Plays』からのオムニバス盤である。そしてもう1枚は1987年の最晩年のスタジオ録音で、ドキュメンタリー・フィルム「Let's get lost」のサウンドトラック『Chet Baker Sings & Plays from the film "Let's GetLost"』だ。チェットは生涯を通し100枚以上のアルバムを出していて、それらはそれぞれにとても魅力的だが、あえて私がこの2作品を選んだ理由は、この2枚が、チェットの音楽家としての生涯を結ぶ言わば2つの「点」だからだ。
ここには25歳と57歳が32年間を隔てて、言わば「同じキャンバスの上に絵を描く」二つの姿がある。同じ楽器編成で同じようにラブ・ソングを歌いトランペットを吹いているにもかかわらず、片や手探りで感傷的な25歳の一人の若者の感性、そして、一方は57歳の男の研ぎ澄まされたロマンチシズムの結晶が記録されている。生涯ただひたすらにトランペットを吹き歌を唄い続けた、そんなチェットの姿に触れることができるのだ。
ドキュメンタリー映画 『Let's Get Lost』では、言ってみればこの2つの点を結ぶ曲がりくねった人生をビジュアルと共に見せてくれてこれは確かに興味深いものだ。
しかし、もし彼の真実により深く触れる方法を求めるとすれば、それは客観的に彼の「破滅的な生き方」を鑑賞するだけではなく、むしろ彼が人生の中で唯一手を抜かないでやり通してきたこと-- すなわちその歌とトランペットに、眼を閉じて「心」で共鳴してみることではないか、と私は思う。


チェットが亡くなった翌年1989年以来私は「Love Notes(ラブ・ノーツ)」という音楽ユニットの活動を続けている。
ラブ・ノーツ(愛の音符たち)というバンド名は実はチェットが晩年に自分の新しいバンドにつけようとしていた名前だった。しかし彼は間もなくこの世を去り、結局チェットのバンド「Love Notes」は実現しなかった。
チェットが亡くなった当時、私のクァルテットに時々遊びに来ては歌っていたボーカルの井上真紀が、やはりチェットの音楽に心酔していたこともあって「チェットの精神を引き継ぐような新しいバンドを作ろう」という話が持ち上がっていた。そこで海外のチェットの友人達や関係者にも相談をして、最終的に「ラブ・ノーツ」 という名前を我々が受け継ぐことにしたのだった。
結成当時は、チェットのレパートリーなどを中心としたTp+Voのジャズ・コンボでスタートしたが、その後ラブ・ノーツの演奏スタイルは常に変化している。最近はライブ等ではジャズだけでなく、ボサノバやハワイアン(HULA)、フォークなどジャンルを越えた演奏やパフォーマンスも積極的に取り入れたり、オリジナルでは『13の月の暦』ムーブメントや 『国際イルカ・クジラ会議』 のテーマソングを発表、更には国連の地球環境会議で演奏したり…と、多分客観的に見ると、なんとも捕らえどころのないバンドに映ると思う。
私達2人がこの音楽ユニットで継承したいと思っているチェットの音楽精神とは、ただ「自分の中にその時ある思いを素直に音に表現してゆく」という実にシンプルなことだ。それを実行してゆくと、価値観が大きく変化している現在だからこそ、当然我々の表現方法も変化する。ラブ・ノーツのメンバーは、今のジャズという同じフィールドに到達する迄にそれぞれがそれぞれの音楽的背景をもっている。
フォーク、ハワイアン、レゲエ、ブルース、ロック、カントリー、などなど…。例えばジャズの 「感情表現」に加えて、もっと人間の「本質的な何か」を伝えようとすれば、よりスピリチュアルな要素も必要だろうし、もっと素朴なサウンドが求められる時もある。それを表現する上で必ずしもジャズに固執する必要はないのだ。むしろすべてがジャンル分けされセグメントされてしまう現代だからこそ、少なくとも音楽を提供する側は既存のジャンルにこだわらない許容量を持つことが必要だと思う。
これこそ12年前のチェットと私の間の不思議な出合い以来私の内面に生じた「気付き」がラブ・ノーツ固有の活動に反映している大きな要素といえるかもしれない。

1999年秋、我々ラブ・ノーツはチェットに対する感謝の気持も込めて、彼の生誕70周年に因んだテレビ番組「JAZZ-LoveNotes」を企画し、あえて我々の原点に戻りスタンダード・ジャズを演奏した。我々がこの企画で実現したかったことは、チェットが愛したスタンダード・ソングスの素晴らしさを、日本の狭いジャズファンの世界だけではなく、より多くの人達に伝えたい…というものだった。字幕をつけた映像でスタンダードを演奏することで、ジャズを難しい音楽と思い込んでいる人達も、まるで洋画を観るように、気軽に親しんでもらえるのではないか、と考えたのだ。(実際、スタンダードの名曲にはその1曲の中に必ず素晴らしいストーリーが展開しているものだ)。故に、そのモノクロの映像も対訳の字幕も、エンディングに語られる短いメッセージも、スタンダードの名曲の素晴らしさを伝える為の一方法に過ぎなかった。もともとは3曲ほどを収録したVTRを関係者にお配りするという程度の計画だったが結果的に、企画に共鳴して頂いたスポンサーの協賛を得て、テレビ東京の深夜枠にて半年間シリーズ放映された。
「モノクロの映像で毎週ストレートに1曲だけジャズ・スタンダードを演奏するという構成とセンスがユニークだ」などと反響を呼んだが、それでもジャズマニアの間では、自分達の知らないバンドが突然毎週テレビに出てきて演奏を始めたのが許せないと思った人達もいたようだ。局の方からはもっと視聴率を上げるために有名なスター(?)を出演させると言うような案も出たが、私は拒否した。なぜなら、もともとこの番組においては「スター・プレイヤー」は必要ないのだ。主役は素晴らしいスタンダードの「名曲」そのものなのだから…。ボーカルの井上真紀でさえ、この映像の中では言わば「ナビゲーター」であり「語り部」にすぎないのだ。

その後、この番組の映像はこれまでの我々の映像作品や新撮した素材も含めて、よりストーリー性を持たせた形で再編集され、ラブ・ノーツのDVD作品というかたちで2枚のアルバムに収録された。更に2000年にはフォークの伝説的グループ、あの『ピーター・ポール&マリー(PP&M)』のポール・ストゥーキー氏が、我々のコンセプトとサウンドに共鳴して自分の曲を提供・共演してくれ、3枚目のDVD「CHRISTMAS」が完成した。
このDVD3部作を続けて観ていただければ、チェットを通じてスタンダード〜モダンジャズの歴史の影響を強く受けてきた我々がラブ・ノーツというユニットで一体何をしようとしているのかが、ある程度解っていただけるのではないかと思う。「チェットの音楽精神を引き継ぎたい」などという、まさに大それた目的で結成した「ラブ・ノーツ」だが、21世紀に入った今、その活動を通して「音楽の本質」という大きなテーマを生涯の課題として我々に遺してくれたチェットというひとりの男は、まったくただならぬ存在であったということを改めて感じている。

日本での最後の晩、チェットは私の目を見てこう言った。「大切なのは自分のスタイルをみつけることだ」と。私は長い間、そのスタイルという言葉が「トランペットの奏法」のことであると、思い込んできた。しかし、最近になって思うのだが、チェットが言った「スタイル」というのは、もしかしたら音楽を通した自分の「生き方」のことなのかな、と・・・。


最後に、チェットのエピソードをもうひとつだけご紹介してこの文を終えることにしよう。

ある晩チェットと一緒に食事をした日、ちょうどその晩にビリー・エクスタインも来日していて六本木のライブ・ハウスに出ていた。チェットはどこから情報を得たのか「ヒロ、今夜ビリー・エクスタインのライブがあるらしい。これから一緒に観に行こう」という。それじゃ、ということでタクシーで現場に直行し、入り口でチケットを買い会場に入った。
開演直前にもかかわらずまだ空いた席がたくさんあったので、私は一番前の席を取って振り向くと、チェットの姿が見当たらない。どこにいるのかと思ったら、一番後ろの壁の影の席に座ってこちらに合図している。なんで前に来ないの?と聞くと、「僕はミスター"B"のステージを前列で観られるようなレベルじゃないから」という。
私はてっきり彼一流の冗談かと思っていた。しかし、セットが終わりビリー・エクスタイン氏の方からチェットに挨拶をしに来た時、まさに直立不動で握手をするチェットの顔はこわばり、そして彼の手は緊張のあまり、震えていたのだった。

我が愛すべき「永遠の青春」チェズニー・ヘンリー・ベイカー殿。全てを本当にありがとう。

[ 2001年 No.107『ジャズ批評』に掲載された文章「オマージュ To チェット」の原文です ]