電話の向こうから声が聞こえてきたのは、通じてからしばらくしてからだった。
こっちが夜中の2時過ぎだからパリは午後の6時頃だ。 寝ていたのかと尋ねると、チェットはやっと聞きとれるような声で 「ああ」 と答えた。
「そう、悪かったね、またかけ直すから」 僕がそう言うと彼は二、三度咳払いをして、
「いいんだヒロ、きょうは、どうしたんだ?」 さっきより少し元気な声だった。
「ああ、チェット、パリからの小包が僕の誕生日に、ちょうどその日に届いたよ。 無事に届いたということと、それにお礼と--」
「そうか、良かった」
「相変わらず忙しい?」
「ああ、夜はニュー・モーニング」でギグがあるし、さっきまでは映画の仕事さ」
「例のドキュメンタリー?」
「ああその通りだ」
それ以上は聴いて欲しくないというニュアンスで答えたチェットは、ロンドンでエルビス・コステロと共演したというライブのビデオのことに話題を変え、まだそれを見ていないので、もし日本で手に入ったら送って欲しい、と言い、私達は電話を切った。
結局これがチェットとの最後の会話になったわけで、その2ヶ月後に、彼はアムステルダムで帰らぬ人となったのだ。
「飛べると思ったんだってさ、鳥みたいに」
熱気と笑い声でむせかえるような学生街のジャズバーでさえ、その晩は "チェット旅先のホテルの窓から転落死" の話題でもちきりだった。
どうしてもひとりでいられなくて、セッションに参加をしに車でここまで来てしまった私は、しかしそんな軽率な彼らの会話にも不思議と腹が立たない。 私は小脇に抱えたソフトケースのジッパーを少し開け、使い古されたブッシャーのトランペットの感触を少し確かめてから伝票を取り、立ち上がった。 外に出ると少し雨が降り始めていた。 --チェットは、どうしてパリで死ななかったのだろう。 彼を抱きしめて離さなかった唯一の街パリで---。
私は、またいつものように彼が滞在していたホテル・アン・デ・フランスに電話をかければあの声が聞けるような気がして、何故かいつまでも実感としてその死を受けとめることができなかった。
1986年、初めて来日を果たしたチェットに、私は会いにいった。 といっても雑誌の取材の記者の後について、ひと言ふた言会話ができれば-- そんな感じだった。 そして少し前に手に入れた彼のディスコグラフィ (デンマークの熱狂的なファンが出版したもの) を見せて、チェット自身のフェイバリット・アルバムをその口から直接聞き出せたら-- と思っていた。
ホテルのフロントで待つ。 約束の時間が過ぎる。 10分、20分...。 シビレを切らした記者が背の高いマネージャーと交渉を始めた。 「買い物に出掛けたらしいぜ」 肩を落とした記者が戻ってきて言った。 「え、そんな --」 「ま、とりあえず出直すか」 彼はそそくさとカメラをしまい始めた。
「俺、もう少し待ってみるよ」
「ああ、お好きに。 まあ無駄だと思うがね」
フロントに戻った私はさっきの背の高いマネージャーが座ってタバコをふかしているのを見つけ、その隣に座った。
「あんた、嘘をついてるだろう?」
「なんだ、お前さんは-- 」
「チェットは部屋にいるんじゃないのかい? 彼に伝えてくれよ、見せたいものがあるんだ」
私は自分がトランペットを吹くこと、普段は広告代理店に勤めていることを説明し、最後にこう付け加えた。
「ロンドンのロニー・スコッツで会った、あの日本人だって言ってくれよ」 (嘘はつきたくなかったが、ま、しょうがない)
そしてまつこと10数分。 エレベーターが開き、やはりチェットは降りてきた。
「君は? 見たことがないナ」
あの 『Sings』 の声だった。
「あのう、これを...」 ディスコグラフィを見せるとチェットは手に取り、パラパラとめくる。 写真集のあたりで手が止まった。 イタリーのフィレンツェで麻薬の件で捕まった時の写真。 32歳の彼の腕には手錠がかかっている。 隣のページは2番目の妻 ハリーマのポートレイト。 チェットは自分からソファの方に歩き始め、私をまず座らせると、マネージャーに指示して部屋に帰らせた。
「...これをどこで?」
「デンマークに電話をして送ってもらったんだ。 初めて見た?」
「ああ、でもすべて昔のことだ」
「わかってる。 でも最近の写真もあるよ」
「ウォーン・マーシュだ」
「クリス・クロスの録音だね」
「そうだよ。 聞いたかい?」
「うん、とても良かったよ。」
「俺はネ、自分のレコードを聴かせてもらったことがないんだ、ほとんどね。 ま、聴く必要もないけど」
「あなたの一番好きなアルバムはどれ?」
作品の一覧表に目を通している彼に尋ねた。
「百枚以上アルバムを作ったよ」
チェットはそう言って本を閉じると目をつぶった。 そして黙って下を向いた。 唇だけが少し動いていた。 2分くらい経っただろうか、彼はまるで眠りから覚めるようにゆっくりと眼を開け、静かに切りだした。
「ブロークン・ウィング...。 ブロークン・ウィングだ。 知ってる? あれは78年のたしか12月、パリで録音したんだ。 フィル・マルコヴィッツがピアノを弾いた。 パリには--」
チェットは一息ついて、こう言った。
「パリには音楽を聴く耳があるんだ」
「良いレコーディングだった--。 ところで今晩のライブには来るんだろ?」
その晩私は原宿の「クラブ D」にチェットを聴きに行った。 素晴らしいライブだった。 前日のコンサートでの調子悪さが嘘のような盛り上がりだ。
楽屋でチェットに紹介されたダイアンはとても素敵な女性だった。 日本酒が好きだといってワンカップ大関をニコニコしながら次々とカラにしていく。
背の高いマネージャーが私に耳打ちをした。
「さっき君がホテルに訪ねてくる前、じつはチェットとダイアンは部屋で大ゲンカをしてたんだ。 君、いったい何をチェットに見せたんだ?」
僕は笑って、彼にそっと伝えた。
「何って、ケンカなんかよりももっと気分の悪くなるような写真だよ」
マネージャーは困ったような顔をして両手を広げてみせた。
行きつけのジャズクラブ、新宿 「J」 にチェットを連れて行ったのは、翌年、2度目の来日の時、彼にとって最後の日本での晩のことだった。 その日はリサのボサノバ・ナイトで、彼はそれをとても興味深げに聴いていた。
セットが終わり、私はダイアンと打ち合わせして内緒で持ってきてもらったチェットのトランペット・ケースを差し出した。 しかし彼は少し疲れたような表情で 「今夜は飲もうよ」 と言った。 私はそれ以上を要求しなかった。
それからしばらくの間、私とチェットはとりとめのない話をした。 ジャズのこと、子供のこと、恋人のこと、パリのホテルのこと、彼がしている安物の腕時計のこと等々--。
やがて話がお互いの共通の楽器であるトランペットのことになっていった。
「若い頃は毎日必死で練習をした時期があった。 速く、スムーズに吹くようにね。 楽器だってマーチンの工場まで行って何十本の中から自分のを選んだ。 何日も通って一本一本を吹き比べるんだ。 どうだ、俺がそんなことをしたって信じられるかい」 「 --ヒロ、君は自分のスタイルを持っているか?」
「僕はアマチュアだからね、好きなようにやるさ、ゆっくりと」
「早く自分のスタイルをみつけることだ」
チェットはそう言うと突然立ち上がり、ラッパのケースを開けながらこう言った。
「いいかいヒロ、よく見てるんだ」
それからの約2時間、チェットはただひたすらに吹きつづけたのだった。 今まで聴いたこともないようなビッグトーン。 彼がこんな吹き方をする人とは思わなかった。 ストレートにオープンホーンで吹きまくるチェットに皆が釘づけになっている。
ただあっけにとられて見つめる私をチェットがステージに呼びあげたのは、3曲目が終わった時だった。 ダイアンに後ろから背中を押され、ほとんど動転したままステージに立っている私に、チェットが言った。
「立ったまま吹くつもりかい? --座れよ」
私は彼の隣に腰かけ、ハンク・モブレイの 『Funk In Deep Freeze』 を一緒に演奏した。 エイト・バース・チェンジ(八小節交換) のトランペット・バトルが延々と続いた。 私は必死で楽器を "鳴らし"、チェットは楽器で "唱った"。 40年間吹き続ける、ということはこういうことなのだと言っているようだった。 私にとって、それまでの人生で一番長く、一番短い時間だった。
翌年の2月23日、私の誕生日の当日に、国際クーリエから電話がはいった。
「パリから小包が届いています。 宅急便でお送りしますか?」
「え、いや取りに行きます。」
ヨーロッパのジャズ・フェスティバルのステッカーがベタベタと貼られたケースを開けると、使い古された一台のトランペットが出てきた。
ブッシャー製のアリストクラート・モデル。 チェットがつい最近まで使っていたものだ。 中に、
「Treat it tenderly--. All the Best, Chet」 と書いたメモが同封されていた。
彼の訃報を受けとったのはそれからちょうど80日後のことだった。
1988年5月13日。 チェットが死んだその晩、パリの街中のジャズクラブは戸を閉ざし、灯りを消した。
[ 1989年 ビジネスインデックス社 『スペシャルエディションパリ』
/ 1989年 No.66 『ジャズ批評』 掲載 ]