Hiro's page


チェットの伝記「終わりなき闇」を読んで。

NYのジェームス・ギャビンという作家が書いたチェットの長編の伝記「Deep in a Dream」の邦訳版が発刊された。
実は以前ハワイ島コナの本屋でボクはこの原書をみつけた。何気に立ち読みをしていたら、冒頭のプロローグでいきなり自分の名前が出てきてびっくり。で、今回邦訳版が出るということで日本の出版社が「Hiroさんの事、載ってますよね」と発売前に本を送ってくれたのだ。 既に原書は読んでいたので、大体の内容は知っていたが、500ページにわたる立派な本の内容は一生のほとんどを麻薬とともに過ごしたチェットの悲惨な生活の描写である。
あらためて読んでみても、よくもまあここまで徹底して周りの人間を裏切り、傷つけ、身勝手な生き方をしたものだ、と思わず絶句してしまう。まさに"めちゃくちゃ"な人生だ。 訳者も"あとがき"で「この本と約3年間格闘するうちに、私はどんどんチェット・ベイカーという人間が嫌いになっていった」と書いている。まあ、確かにチェットの音楽の"大ファン"というわけではない方が、ここに書かれている事だけを見れば誰だって思わず「胸が悪く」なるだろう。この訳者の方には心から同情する。
しかし、それでもこの本をなんとか読み進むと、我々日本人のチェット・ファンにとっては少しだけ救われた気分になる事実も見えてくる。それは、延々と続く晩年の陰鬱な人生の中で唯一チェットが光り輝く瞬間こそが日本の演奏ツアーの時だったということだ。
チェットは一番好きなヤクを「絶ってでも」日本にどうしても来たかったらしい。来日が決まった時などは、周りの友人達に「俺は日本に行くんだ」と言いふらしていたという。 そして実現した2回の日本滞在中チェットは終始"ご機嫌"だった。例えばこの頃のチェットはトランペットの演奏がどんどん内向的になっていた時期なのだが、あの晩のボクとのトランペット・バトルでみせた彼のまさにエキサイティングな演奏や、ステージでふと見せた無邪気ともいえる様子は、ボクも含めてあそこに集まった誰もがチェットと一緒にかつてのハーモサ・ビーチのセッションに一瞬フラッシュバックしたかの様な錯覚を覚えさせた。そんな"ドラッグ・フリー"の状態でなければ放ち得ないチェットの輝くオーラに直接触れることが、どれだけ貴重な事だったかが、この本を読み進むうちに解ってくるのだ。
それにしても、チェットが最後にみせた溌剌とした姿と音を真近かに体験出来たのが、アメリカでもヨーロッパでもなく、東の果ての日本のオーディエンスだったなんて・・・なんと皮肉な話だろう。
だからこの本の中でも、ほとんどのチェットの周りの人間がチェットを「人間のクズ」と言い切っている中でボクだけが「人生の師として尊敬してました…」などと言っているわけで、そこだけ読んだ人は日本には何ともおめでたい奴がいたもんだ、と思うんだろーなぁ。
で、全部読み終わって、これはブルース・ウェバーの映画「Let's Get Lost」にも言える事だけど、ボクは「みんな!もっとチェットの音楽をちゃんと聴いてよっ」て叫びたくなった。
勿論、この本の中ではチェットの音楽を取り上げて安易に評論・描写し過ぎていない部分に、かえって私は好感を覚えるのだが、でも出来れば読者はチェットの音楽に一度でも何かを「感じて」から、彼の数奇な人生を鑑賞して欲しい、と心からそう思うのだ。私は断言する。チェット・ベイカーの本質はその音の中にある!!

ジャズという音楽が凄いのは、一人の人間のいかなる「感情」もジャズという形で演奏されれば、それは瞬時に次元を超えたニュートラルな「波動」に変換されてしまうところだろう。例えばそれが人種に関する何世代にも渡る忌まわしい怨念だろうが、またはスタンダード・ソングに歌われた乙女のたわいの無い恋心だろうが、はたまたチェットの自由奔放な生き方であろうが、それがネガティブかポジティブかにかかわらず、ひとりの奏者の楽器をとおして一たび「メロディ」という形で放出されれば、結局は「美しいか」「そうでないか」のどちらかなのだ。
人を観察するのに、その人の社会における生活態度と、自らが紡ぎだすメロディとどちらが純粋な「秤」になるんだろうか・・・と考えると、、、ボクは絶対に後者だと思う。ジャズのアートとしての価値ってそういうものだ。

いずれにしてもこの本、膨大な情報がよくまとめられているだけでなく邦訳も的確で、これまで出たどのチェットに関する文献よりも興味深く、少なくともボクは充分に楽しませてもらった。B.ウェバーの「Let's Get Lost」の製作に関してもかなり詳しく書かれているし、また「ラブ・ノーツ」がチェットの最晩年に彼が新しく作ろうとしていたバンド名で、それを彼が日本でほのめかした(ま、そこにボクが居合わせたわけです)という事実にも触れている。
チェットの音楽に感じた方は是非手にとってみてください。
「終わりなき闇/チェット・ベイカーのすべて」ジェームス・ギャビン著・鈴木玲子訳 河出書房新社刊 税別3,900円

p.s.
この本を読む前にまずチェットの音楽を聴いてみたいと思う方の為に、100枚を超えるチェットの作品の中から初期とカムバック後のそれぞれの代表的作品を記しておきます。
☆1950年代
Chet Baker Sings(Pacific Jazz)チェットベイカー・シングズ
Chet Baker Sings and Plays(Pacific Jazz)シングズ・アンド・プレイズ
☆1970年代
She was too good to me/Chet Baker(CTI)邦題「枯葉/チェット・ベイカー」